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最後の一瞬、誰よりも近い

CoM0 TrB0
絶対にハマってなるものかと思っていたアリプロにハマっています。
薔薇架刑も予約しちゃったよ…なんか悔しい…。
これだけ耳に残ると、もう何かサブリミナル効果が働いてるとしか思えないよ。
ディレッタントに入ってる「人生美味礼賛」が、今朝から頭の中でぐるんぐるん
リフレインを続けています。にしてもこの曲、凄い歌詞ですな。お腹が壮絶に
減ってきます。あぁ!肉食べたい!
あと、「亡国覚醒カタルシス」に出てくる「太陽に住むという賢者の鷲」って、
日本神話の「神武天皇の金鵄」のことじゃないかなと思ってたんだけど、よく考え
たら「鵄」ってトンビのことだよね。ちぇっ。

もうひとつ、アリプロに関して気になること。
某アリプロ大手サイトの曲分類に、ラウド系の項目がある点。
そんなごつくないやん。

暇です。
香川県某所、壮絶に退屈で穏やかです。
今朝方から今までで、我が家の前を通った車は、まだ五台に達しても
いないでしょう。きっと、猫や犬の通った回数のほうが多いでしょう。

毎回そうですが、こっちに帰ってくると読書量が増えます。
理由はもちろん、暇だから。
知識の獲得という精神の充足によって、肉体の退屈を満たせるのか、
という禅問答みたいなことを考えながら、とにかく適当に本を読んでます。
あぁ、知識でお腹を満たすことができれば、人類はもっと別の進化を遂げて
いたんだろうなぁ。(よこやまさん、今お腹すいてる。)
両親の本棚にあった、キルケゴールの『死に至る病』を読んでみたりとか。
BGMはアリプロ、そして読む本はコレ。
暗澹とした気持ちになること請け合いの組み合わせです。
「月蝕グランギニョルと死に至る病」、こんなタイトルでイタいライトノベルの一冊
でも書けてしまいそうです。我孫子武丸が『殺戮に至る病』っての書いてたし。

因みに内容理解はですね。
無理、駄目、あんまり理解できなかった。
考えながら読めてない証拠?
考えて分からない部分も多いだろうけどね。

とりあえず、セーレン・キルケゴール(キェルケゴール?)さんは言いました。
絶望は死に至る病であると。
ここでいう死は、精神の死のこと。
精神の死、それこそが人間にとって絶対の死であり、
人間をそれに至らしめるものが「絶望」であると。
(キリスト教的には、肉体の死は絶対ではないんだそうで。)
そんでもって、本当の絶望は「自分自身」を対象とする絶望なんだそうです。
女子高生に戻れないよこやまさんは、女子高生に戻れなかったことに
絶望するんじゃなく、戻れない自分自身に絶望する…ってこと?
事象ではなく、その主格である自分に絶望する…うわぁ怖ッ!!
そして、その絶望にも三つの種類があるらしい。

1.絶望して自己をもっていることを自覚してない場合
2.絶望して自己自身であろうと欲しない場合
3.絶望して自己自身であろうと欲する場合


最初のひとつは、非本来的な絶望なんだって。
そして、これらは自己自身が対象であり、自身が存在する以上は不可避らしい。
死に至る病(絶望)からは逃れられない。
そんで、キリスト教的に言えば(というか、教徒であった彼からすれば)、絶望を
犯すことは、神への罪らしい。
で、結局はキリスト教観で語られて終わる。
神と共にないものは、死に至る病のうちにあると。

…難しいなぁ。
結局、本の内容の全てを理解するのは無理だった。
ここに書いてるのも、十中八九嘘が混じってるので、読み流すだけにしてください。
で、ここからは、よこやまさんが思ったこと。
理解の域に達してない人間が管を巻いてるだけですよ。

キルケゴールの絶望の定義を、よこやまさんが自分勝手に解釈(曲解ともいう。
自分が語り口にするために文字面だけで抽出したものなので、ほんとにこんな
内容だとは思わないでね。くどいけど。)すれば、自殺しちゃう人は、究極の絶望に
届く前にドロップアウトした人なんじゃないかと思う。
3のように、自己であろうとしたら自殺にはならない気がする。
自殺って自己放棄でしょ、誰がどう言っても結局そうでしょ。
絶望の極地を味わうことなく、最深度に達してすらいない絶望で死ぬ。
絶望さえ半端のままでその生を終えるなんて、もう笑止ってかんじ。



しかし、究極の絶望が「自身に絶望して、なおも自己であろうとすること」
なんだとすれば、それは積極的(絶望的な程真摯に)に自己を肯定しようとする
ことでもあるんじゃなかろうか。
屁理屈かなぁ。
うわぁ、ちゃんと理解して読んでないのが丸分かりだわ!!

「自己への絶望と自己肯定」
究極の絶望が持つそのジレンマに耐えられる人間は、果たしているんだろうか。
寧ろ、究極の絶望がそういう面を持っているなら、それは既に絶望を解くための
糸口を備えていると言えるかもしれない。
ていうか、涅槃寂静の「悟り」の域と言っても差し支えない予感。

こんなことを考えていたら、多分最後には、色即是空とかそんな四字熟語に
たどり着いてしまいそうですな。
日文生の哲学なんて所詮は詭弁か屁理屈だわぁ(逃げ)。

でも、正直言っちゃえば、究極の絶望を知覚している人は、ある意味で幸せだ。
よこやまさんにはそんな純度の高い絶望に、気づきすらしないかもしれないから。
瑣末な悲嘆と歓喜を頼りにして、平均寿命80年の世界を生きる。
でも、自らを形作るさまざまなものは、ゆっくりと確実に死んでゆく。
それもひとつの「とるに足らない絶望」、緩やかな死に至る病と言えるかもしれない。
特に日本人は汎神論者だったり無神論者だったりするわけだから、キルケゴール
のいう神(キリスト教的な)と共にある自己を理解することはできない。
神と共にある自己を持たない日本人は、緩やかな「死に至る病」の中にいる。
究極の絶望の渦中にあるのかどうかすら判然としないままで、生きて、そして
肉体的にも精神的にも死ぬ。
つまるところ、ゆっくりと死んでゆくのが人生ってことじゃん。
究極の絶望すら、分からないまま。


そんなことを考えていると、有名なアレゲーのアオリ文が頭をよぎりましたw
「最後の瞬間、側にいて」っていうやつ。もううろ覚えだけど。
あ、アリプロの「阿修羅姫」の歌詞にも似たようなのがあったかも。
「最期の瞬間にあなたの瞳見つめられるなら
犯す罪残さず地獄の神に赦しを乞おう」
だっけ?漢字と句読点の位置は自信ないけど。


使い古された「最後の瞬間」って、結局何万分の一秒なんだろう。
それで、調べてみたら、ゼロより下の位にも単位があるんですね。
一番大きな単位の「無量大数」は知ってたけど、ゼロ以下なんて「九分九厘」の「分」
と「厘」までしか知らなかった。(にしても、無量大数っていかにもデカそうだよなぁ。)
今ちゃちゃっと調べた限りで言えば、一番小さな位は「清浄」というらしい。
最後の瞬間、清浄というどこか清々しくすらある名の一瞬、そこに添わせたいものを
確信しているなら、それは神と共にあると言っても過言ではないかもしれない。
神に代わるべき存在を自分で持っているってことだよね。屁理屈だけど。

あ、ゼロ以下の単位には、「糊(もこ)」ってのもあるらしい。
いや、もこは尤物だぜ?
だってどっちもかわいい!(突然サークル仲間に話を振る。)


うわぁ、ゼロ以下の単位を調べなおしたら、最小単位は「涅槃寂静」って出た!
最深度にある究極の絶望、そこにあるものが涅槃寂静の境地だとする。
そして、人生の最後の最後の最後の一瞬は、「涅槃寂静」の一瞬だ。
ゼロへの回帰と究極の絶望は、同じ場所に行き着く。
なんだか嬉しいね。

これは言葉遊びに過ぎないけれど、その最後の瞬間に待つべき誰かがいるんなら
まぁ多分、悪くない。

『サヨナラ イツカ』みたい。
なぜ、『死に至る病』の感想がこうなるんだ自分。
ひとりごちてどうするんだ、へたれ大学生。


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日記は雑記。  2007.02.11
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プロフィール

よこやまさん。

Author:よこやまさん。
性別:女のひと
年齢:19歳13ヶ月に突入。
趣味:女子高生の制服を追求。
所属:日文専攻、合唱団ほか。
備考:香川を愛してやまない
大学生。でも今は京都暮らし。

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