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こころみにあわせないでください

CoM0 TrB0

のぉう、眠れない。
一日中寝ていたくて週の中日を自主休講したかと思えば、今度はこの
体たらく。布団に入って「眠れ自分!眠れ!!」と必死に促してみたけれど、
「うん!ひゃくパー無理!」ってかんじだったので、何か適当に更新します。

ミクシィ日記の方には前にも書きましたが(そしてその日記は既に
削除してしまいましたが)、小学校時代の恩師が先日亡くなりました。
小学校一年生だった私たちのクラスを担任し、それを最後にして退職
なさった方だったので、もうだいぶお年を召されていたことと思います。
ご冥福をお祈りします。
ありがとうございました。

ふんわりと笑っていたその先生を思い出しながら、ぼんやりと考え事。
これが終わったら、プレゼンの準備をはじめなくちゃだ。


亡くなったその先生に、私はかれこれ十年近く会ってない。
最後に会ったのは小学五年生の時だった。
だから正直なところ、先生が担任だった頃のことはもう曖昧だ。
友人から訃報を聞くまで、何年ものあいだ先生を思い出したことが
なかったくらい、その記憶は日常から遠いところにあった。
それに関して、自分がとくべつ薄情な人間だとは思わないし、
寧ろそれが当たり前なんだと思う。

でも不思議なもので、そんなふうに相手を思い出すことが全くなかった
にも関わらず、友人から連絡を受けた時や、こうして日記にまとめている
時に、わたしがこぼした言葉は「ありがとうございました」だった。

ありがとうございました。
恩師なわけだから、これが最敬の言葉になるのは当然だ。
学校という文化のなかに放り込まれたばかりだった小さい私を、
一年間担任してくださってありがとうございました。
もちろんそれだけの意味じゃない。
何に対しての謝辞なのかは分かるようで分からないけれど、
ただとにかく感謝するのが一番に見合っている。
ごく偶然に担任と教え子としてめぐりあわせた人に、これだけの
年数をこえて「ありがとう」と思う。
ふしぎな気分だ。


「わたしたちをこころみにあわせないでください」
たぶん、知らない人には全く聞きなれない文なんだろうと思う。
「わたしたちが悪の誘いに負けるのを許さないでください」
という意味の、カトリックの主祷文らしい。
宗教について、簡単な入門書程度しか読んだことのないわたしは、
ずいぶん長いあいだ、この文章の意味を勘違いしていた。
「わたしたちを行き逢うだけの人に会わせないでください」
そういうことを言っているのだと思っていた。
「ただ何となく、ものの試しに引き合わせるようなことはしないでくれ。
出会ったかぎりはその人を愛するように、慈しみと感謝をもてるように、
ただひと時行き逢って終わるようなことがないように。
どうかこころみで人にあわせないでくれ。」
…そういう祈りなのだと思っていた。
実は今でもこの方がしっくりくると思っている。うん。

実際、そうだといい。
「こころみに終わらない」人とだけ付き合っていたいと思うのが人の常だ。
そういう人とだけ会えるなら、それにこしたことはない。
高校生だった3年間、わたしはすごく限られた人間としか付き合わなかった。
排他的にすぎる話だけど、そうすることで、その限られた相手を何より大事に
できるものだと思っていた。その人たちを、「こころみに終わらない」相手に
したかったわけだ。
もちろん甚だしい自惚れだ。
で、そんな自惚れと偽善は一対だと言えなくもない。

その人たちが幸せになるように、できるかぎりのことをしたいと思っていた。
そうしてできることは、押し付けがましくて些細なことばかりだったけれど、
一度自惚れに絡まった人間はそれをする。
それが偽善というものだと思う。
その人たちを愛せるように、慈しめるように感謝できるように。
そして同時に、わたしもその人たちにとってそういう存在であるように。
わたしは、その人たちがわたしを幸せにしてくれればと思っていたわけだ。
心のどこかで確かに思っていた。

そしてわたしは、その偽善に返す信愛が達成されないと分かったとき、
その人たちから離れたいと思った。
実際に会わないようにしたこともある。
そのまま会わなくなった人もいる。
気分の悪い話だけど、わたしは同じだけのものを返してほしかった。
そうすることで、お互いに幸せになれるのだからそれでいいと思っていた。
ずいぶんと計算じみていて、かつ予定調和的な幸せだ。

誰か一人を自分の手でとくべつ幸せにしようとする行為(それはえてして
自惚れに陥りやすい)は、自分か相手をものすごく孤独にするのかもしれない。
そうしようとしていた相手と距離を取ったとき、目の前に広がるものを想像
してみて欲しい。排他的に人と付き合おうとした人間は、他からだって
排他的にされるものだ。
「こころみにあわせないでください」
そう思うならば、ただ行き逢うだけの人にも、微笑みかけることができなければ
いけないのかもしれない。でも、その行為は行過ぎるだけの人を一時的に
足止めさせてしまいはしないか。いずれは去っていくけれど今そばにいる、
そういう都合のいいだけの相手を引き寄せはしないか。


あー朝が来てしまった。
ぼんやり、ぐだぐだ考える。
…幸せにしてもらうために人を幸せにするのは、ありなんだろうか。
そんな予定調和の幸せに満足できるほどわたしたちは愚かなんだろうか。
「幸せにしよう」というのは偽善じゃないのか。
今もってわからない。
ただ、「こころみに終わらない」相手は、そういう関係の中に見出されない
といい。そう思う。
少なくとも、死に際して「ありがとう」と言えるような、そういう人のつながりの
中に見出していたい。(その意味で、わたしの恩師は「こころみに終わらない」
人だったのかもしれない。あれだけの年数をこえて、わたしのそばにこういう
気持ちを残していったわけだから。)


わたしは不信心者だけど、行き詰まるときには神様に祈ってみたりする。
宗教に対してご都合主義なところがある、そんな日本人の一人だ。
でも、祈るだけで願い事は叶わないし、
宗教の碩学に言わせれば、キリスト教の神っていうのは
そういう祈りを叶える存在ではないのかもしれない。
でも思いたいわけだ。
祈ればなにか起きはしないか。
神様が難聴気味で祈りの言葉が届いていないんじゃないか。
実は神様は意地悪で、焦らしながら楽しんでいるんじゃないか。
そんな神様は嫌だけど、そう思うほうがまだ少し救いになる。
なるならば、そう思いたい。
祈りはいずれ達成されて、わたしは「こころみに終わらない」人と出会う。
少しでも沢山の人を、そういう人にしていきたい。
それはとても骨が折れる行為だし、面倒くさがりで少し気を抜くと辛辣な
ことばかり言ってしまうわたしにできることなのか、甚だ疑問ではあるけれど。

うちの大学にいる3万余人の人たち。
これから大学を卒業するまでの一年半(もう、一年半)、わたしが必死に
手を伸ばし続ければ、増えるだろうか。
この国にいる、推定一億二千万人の人たち。
生きられる限りの時間をかけて手を伸ばし続ければ、増えるだろうか。
こころみにおわるのではない人が増えるだろうか。
少しでも安らかであり幸せであってほしいと、わたしが心底から思える人が、
あるいは、わたしに対して心底からそう思ってくれる人が、増えるだろうか。

そうあってほしい。
クリスチャンではないけれど、それは信じていたい。
だから神様。
あなたが難聴でも構いません。
あなたが意地悪でも構いません。
「どうか、わたしたちをこころみにあわせないでください。」


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日記は雑記。  2007.05.19
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よこやまさん。

Author:よこやまさん。
性別:女のひと
年齢:19歳13ヶ月に突入。
趣味:女子高生の制服を追求。
所属:日文専攻、合唱団ほか。
備考:香川を愛してやまない
大学生。でも今は京都暮らし。

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